医療法人もみの木歯科の院長・スタッフ紹介|三重県松阪市の歯医者

「マックスバリュ郷津店前」より徒歩4分

駐車場20台以上

院長・スタッフ紹介 STAFF

院長紹介

私は「この松阪市という地方都市でも良質な治療をご提供したい。そして予防を通じて多くのかたの人生を守りたい」という想いから歯科医院を開設しました。
むし歯治療は、削って詰めれば終わります。しかし、ただ簡単に修復すればいいということではありません。目先の簡単な治療だけでは本当の健康は守れないのです。歯周病治療や、噛み合わせの知識、歯を補うための入れ歯・インプラントなど幅広い分野に精通していなくては、長期にわたって歯を守ることは難しくなります。
たった1本のむし歯をきっかけにして、お口全体が崩壊してしまうことさえあるのです。当院では、1本のむし歯を全力で治すことはもちろんとして、一生涯、歯に困らない治療を目指しています。
そして、悪い部位を治療したら、予防を通じて歯を守るサポートを行いたいと考えています。歯を大切にしたいと考えているかたは、どうぞお気軽に当院へご相談ください!

院長
村田 幸一朗
Koichiro Murata
略歴
  1. 平成10年

    日本大学松戸歯学部 卒業
    同年歯科医師免許 取得
    愛知学院大学歯学部付属病院
    歯科補綴学第一講座
    入局

  2. 平成14年

    トヨタ記念病院歯科口腔外科
    勤務

  3. 平成15年

    林歯科医院 勤務

  4. 平成15年

    愛知学院大学歯学部
    非常勤・助手

  5. 平成18年

    3月もみの木歯科 開院

  6. 平成27年

    5月医療法人もみの木歯科
    法人化

資格・所属学会
  • 日本口腔インプラント学会
  • 日本歯科医師会 会員
  • 臨床歯科を語る会 会員
  • 愛知学院大学有床義歯講座 非常勤助手
  • 歯周病学会
  • 補綴学会
スタディグループ
  • はまゆう会
  • もくあみ会
  • しんせん組
  • 校医 三重高校
  • 校医 わかすぎ第2保育園
研修会修了実績
  • JIADSインプラントコース
  • 臨床基本ゼミ
  • 内藤正裕先生・くれない塾
  • 愛知インプラントセンター100時間コース

院長のプロフィール

3人のお子さんがいる患者さんから、息子さんの進路の参考にしたかったのか、「なぜ先生は歯医者になったの?」と聞かれました。歯科医を目指して(大学に入学してから)もうすぐ20年になるため逆に今となっては、歯科医以外の職業は考えられませんが、当時は歯科医になりたいという強い思いはなかったと思います。ですのでちょっと考えてしまいました。強いて言えば教員で地元をこよなく愛している父の影響で、僕も三重県で働ける地元でもできる仕事に就きたいと思っていたことと、親戚に歯科技工士さんがいて見慣れない模型に当時から興味津々であったこと、小学生の頃、屋上で遊べた地元JA(農協)にあった歯科医院の先生が、やさしく、いつも遊びに行って(というより待合室にあった飲料水を勝手に飲みに行っていた困った子どもでした)自分の中では歯科医院のイメージをすんなり持つことができたことだと思います。
どのような歯科医になりたいか、どのような医院にしたいか。今思うと当時の近所の歯医者さんが今のもみの木歯科のコンセプトになっているんだと思います。

現在に至るまでの経験と想い

1. 父との思い出

父は小学校の教諭でしたが、父の教え子のかたにお会いすると、「ほんと、良い先生だったよ、怖い先生やったけど。」と言ってくれます。皆、当時は厳しい怖い先生というイメージがあったみたいで、当然僕も子どもの頃はよく叱られたものでした。
しかしそのときの状況や、なぜそんなことをしたのか、理由をきちんと聞かれ、毎回面と向かってコミュニケーションを取ってくれていたと思います。(もちろん殴られた後でしたが。)

そんな父のおかげで、なにげなく、なんとなく物事にはちゃんと理由があるのだということ、また同じ過ちは繰り返さないことを考えるようになったと思います。

2. 小学生時代

生まれ育ったところは大内山村(現大紀町)。自然豊かな場所で、今の垢抜けない、おっとりとした性格はこの頃からほぼ変わってないと思います。 当時スポーツ少年団の剣道が小学校の体育館で行われていたのですが、隣に家があったということもあり、灯りが付くとよく遊びに行っていました。上級生がかっこよく、すぐに自分もやりたいと思うようになりましたが、小学校2年生にならないと入部できない決まりがあり、ただ講堂の端のほうで遊んでいました。
毎回毎回行っていたため、先生に「小学校に入ったら、特別に入団していいよ」と言われすごく喜んで家に帰った思い出があります。初めは、父に「そんな誘われたからって軽い気持ちじゃ迷惑をかけるだけだからだめだ」と反対されました。しかしどうしてもやりたくて『6年間続ける』という約束で許してもらいました。しばらくは防具なしで基礎練習をやっているだけでしたが「早くあのかっこいい防具をつけてやりたい」といつも思っていました。一年経ったくらいでしたか、初めて防具をつけて練習したときは本当に嬉しかったです。しかし、現実はそんなに甘くはなく、夏は防具が暑いし冬は胴着が寒いし、なにより痛いしで、あんなに楽しみにしていた講堂の明かりが憂鬱なときも多々ありました。
しかし、厳しい練習も続けられたのは、入部時の父との約束を思い出すことでがんばれたのだと思います。
しばらくして試合で勝てるようになるにつれ、練習も楽しくなるようになりました。剣道は個人競技のように思いますが、団体戦は個人の力以上のものが出せるので特に好きでした。
5年生の頃まで団体戦ではいつも3位止まりで、またそんなものなのかな、という雰囲気がありすでに気持ちで負けていたところがありました。
ある試合にOBの若い先生がこられ「お前らは、実力はあるのに、元気がないんだ」と言ってきました。結局いつもの精神論『気合が足りない』ということだと思って皆うつむいていたところ、「そうじゃない。試合全体を盛り上げるんだ。今出ている選手をもっともっと楽しませるつもりで、励ませ。自分が一番なんだと思えるくらい周りが盛り上げろ」とおっしゃいました。
当時試合をしている選手は声を出しますが、ほかのものは見守っているだけというところがありました。「周りがもっと声を出せ、選手を盛り上げろ!!」という先生につられるように、自分たちの試合だけは出ている選手以上にうるさいほど盛り上がっていました。
するとウソのように、皆なぜか体が動き優勝候補相手に5連勝で勝ち、その勢いで初優勝を成し遂げました。初めて手にした栄光は仲間と成し遂げた(お互いを持ち上げただけでしたが)思い出深いものでした。
それから常に優勝候補でしたが、どうしても勝てない相手もいました。最後の大会も大将だった僕が1本でも取れば(2本先取で勝ち)団体では勝てるという大事な試合でその相手に負けてしまい、また代表戦にも出させてもらったのですが、そこでも同じ相手に負け、いままでがんばってきた仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

3. 中学生時代

中学には剣道部はなく野球部に入部しました。それまでは野球は投げて打つと言う単純なもの、という感じでしたが、雨の日はミーティングに費やすことも多く、体を動かすのと同じぐらい頭を使うことを教えてもらったと思います。
守り抜く野球でいつも善戦はするものの、打てずに最後に競り負けてばかりでしたが、野球(スポーツ)の面白さを教えてもらった時期で、下手なりに一生懸命やっていたと思います。(野球好きは間違いなくこのときからです!)
勉強も部活が終わってから始めたようなものでしたが、なんでもがむしゃらにできた時期でしたのでそんな勢いで(?)志望校になんとか合格できたような気がします。夏は河原でテントキャンプなど自然を満喫した少年時代でした。

4. 高校生時代

今考えると一番中途半端な時期だったと思います、何かに打ち込んだというものはなく、3年間があっという間に過ぎてしまった気がします。2年生の終わり頃、進路を決めないといけない時期にさしかかり「なにかやって人から感謝される職業につけたら…」と漠然と思っていただけでした。
目標は大きく、「それじゃあ医者になろう!!」と。当時は歯医者も医者と同じだと考えていました(笑)しかし、どちらにしても現実はそんなに甘くはなく浪人することとなりました。

5. 浪人時代

大阪で寮生活は厳しく時間単位で管理されるある意味、虐げられた一年でした。 その中で成績が伸びたのかどうかは少し疑問ですが、とりあえずは受験勉強だけした一年で、そして私立ですが歯学部と、国立大学は教育学部に合格することができました。 先述した通り、父は教員でしたので同じ道を進むことも考えたのですが、両親も僕の意見を尊重してくれて歯学部に行かせてもらえることになりました。(今でも感謝しています) またそんな浪人生活で、当時不平不満をいって過ごした仲間とはいまでも、仲良く年に一度大阪に集まり同窓会をしています。(北海道から沖縄からも集まります)

6. 大学生時代

大学時代は部活(また野球部でした)とバイトの生活でした。
部活はそれまでは監督についていくというものでしたが、大学では自分たち学生中心でやっていました。
ですので、その年の幹部(4年生時)によってカラーが少しずつ違っていて、いま思うとチームをつくっていくといういい経験をしていたんだなと思います。
僕らは同期が4人いたのですが、1〜2年の頃はよく一緒にいて先輩の悪口?など言い合いながら楽しく過ごしていましたが、3〜4年の幹部になるとお互いの意見が合わず、ぶつかることが多くなり、顔も見たくない!!と思っていたこともありました(笑)

しかし大会に向けて勝ちたいと思う気持ちは同じでしたので、試合では一丸となり、幹部のときに歯学体3位となれた夏の大会は本当に嬉しかったです。本当のチームワークとはいつも仲良く一緒にいることでできるのではなく、それぞれ自分たちがやらなければならないことをやり、それを認めること、そして信頼でき初めてできるものと学びました。

7. 臨床実習
患者さんの痛みを
知るため先輩に頼み、
親知らずを抜いてもらいました。
痛かったです。

大学5・6年の臨床実習では、歯科補綴科・口腔外科・保存科・矯正科・小児歯科などなど各科をまわる実習、テスト、また個人では患者さんについて治療補助、また各科のDr.との予約をこなすという大変忙しい生活でした。
患者さんの治療内容に沿って一緒に各科を回らせてもらうのですが、もちろん補助だけで治療はできません。しかし、実際に患者さんと接する時間は担当Dr.より学生の僕たちのほうが長く、しばらくするとなかなか先生には言えないことや、お口の中だけではなく、家庭のことなどいろんな悩みを打ち明けてくれるようになりました。相談に乗ったり、コミュニケーションを取ったりしたおかげで、先生との間に立って、一緒に患者さんの治療に携わることができ、大変でしたが、充実していたし、また大変勉強になりました。なんと言っても「ありがとう!」と最後に笑顔で言ってもらえたことが活力となり嬉しいことでした。今でもこのひと言をもらうためにがんばっている気がします。

8. 卒後研修

名古屋にある愛知学院大学歯科補綴学第一講座にお世話になりました。 補綴学とは入れ歯を専門にしている講座です。口腔外科に進むか迷ったのですが、当時お世話になった先生に「まず義歯(入れ歯)や歯科治療をしっかりできるようになってから口腔外科勤務を考えたら?」とアドバイスをいただき、確かに開業医志望でしたので、義歯など一般治療をできるようにならないと始まらないと考え、入局しました。
大学では昼は患者さんを診て、夜は入れ歯を作るという毎日でした。(技工士さんと同じようなことをしていました)
自分が治療した患者さんの歯を模型にして技工作業も一通りは自分でできるようになりました。
大学病院でしたので基礎からしっかりできたことが良かったと思います。
その中で興味を持ったのは、顎顔面補綴という分野で、悪性腫瘍などでやむなく顎や頬骨などを切除された部位に顎義歯、エピテーゼ(人工皮膚)などを作るものでした。
治療が一次治療(予防)、二次治療(早期発見、早期治療)、三次治療(リハビリテーション)に分けられるとすると、補綴治療は欠損部の機能回復(リハビリテーション)に当たり、その中でも顎義歯は、自分たちしかできない特殊な治療としてはまっていきました。
入れ歯の材料で作れるためという理由でしたが、初めて作った顎補綴は、眼球でした。歯科病院でまさか義眼を作製するとは思わなかったですが、良い経験をさせてもらいました。
今となってはそんな分野に全く関与しておらず、逆に普通の義歯の難しさに改めて直面しています。
しかしそんな4年間大学病院にお世話になっていたことで、顎義歯専門の歯科医師として、週一回トヨタ記念病院に行く機会に恵まれ、また口腔外科に興味があるということをそこで話していたら、「翌年の口腔外科の研修枠が一つ空いたから、村田先生どう?」とお声がかかり、丁度30歳になる年だったのですが、最後のチャンスだと思い一年間の研修をさせていただくことにしました。

9. 総合病院にて

しかしこれがすごく大変で、まず、採血や点滴の打ち方、入院患者への対応など、看護師さんが当たり前にできて知っていることができない、夜中呼ばれても上の先生に確認しないとなにもできない、ということがしばしばで、今思うと精神面、体調面、ともに追い込まれていたのか、30歳にして水痘(いわゆる、水ぼうそう)にかかりダウンしたほどでした。 しかしこれでは一年が無駄になると思い、新人の看護師が読む本など、本当に一から勉強し直しました。

よく「会社の歯車にはなりたくない!」と聞くことがありますが、歯車にもなれないという悔しい体験を味わいました…。研修期間はあっという間に過ぎていきましたが、周囲のかたがたの多大なるご指導に鍛えられ、実り多い一年になったと思っています。

10. 開業医勤務

口腔外科研修が終わったあと、嬉野の林歯科にて約2年半お世話になりました。林先生は本当に勉強熱心で仕事に対する姿勢について教えていただきました。 特に心に残ったのは「開業医の治療はかけ算で、一つでもできないと0になることがある」という言葉でした。たゆまず新しい診療や学術に取り組まれている勤勉な先生です。
また予防治療の概念を教えていただいたのも勤務医の時で、もみの木歯科が目指している「予防中心で患者さんとコミュニケーションがとれる医院」の礎となっています。

11. ホームドクターとして

これらの経験を積んでH18年に松阪市郷津町に「もみの木歯科」を開院しました。
患者さんとしっかりコミュニケーションが取れる、笑顔の絶えない医院を目指しています。包括治療を念頭に置きながら、総合病院や近隣の医院と連携も大切にし、もみの木歯科が地域のホームドクターとして、この松阪第四地区にしっかり根を下ろしていけるよう、スタッフ一同日々研鑽を積んでいきたいと思っております。

スタッフ紹介

私たちが皆さんの健康をお守りします